素手時然(そしゅじねん)ー無印良品の本ー

デザインのことを考えていたら、無印良品のアンソロジーが目についたので手に取ってみました。

素手時然(そしゅじねん)

ちょっとサイズが大きいな・・・文庫サイズならいいのに
旅をしながらめくる、いや旅から生まれた言葉を楽しめばよくて、わざわざいらないかな・・・などと考えながら知ってる人の言葉、そうでない人の言葉、また、写真をめくりながら色々と考えました。

日頃、いいね!になれてしまっている毎日、どうも言葉をおろそかにしていないだろうか、そうしたことを珠玉の言葉が集まったアンソロジーを読む中で思いました。その短い言葉の前後に膨大な言葉あり、その一編でしかないのものの集合体を読みながら、その反省と肯定を繰り返しながら、それでもやはり、何か書きたいと思ったのです。

書くということは、歌うこともそうだと思いますが、泣いたり、笑ったりすることと同様に、人に許された表現行為なのだと思います。その自由が抑圧された歴史も我々は背負っているし、それを保証する責務も持っているはずで、そのプロセスを誰もが味わうことができるようにしていないといけないのです。もちろん、その行為の中に、写真を撮るというのもあると思います。印刷の機械が発明されたように、カメラが発明され、大きな発達を遂げています。私たちはそれも使うことができるようになったし、もうしばらくしたら、イメージをそのままテレパシーのような人体から発信する通信でコミュニケーションができるようになるかもしれません。そんな多くの発達の中で、私はただそぞろにどうしたらいいのか迷うこともあるのですが、それでも言葉を編みたいなと考えています。

人は像をなすのだと思います。言葉や映像、様々なものを使い。目には見えない、でも感じたり、伝わったりする触媒を形成させていきます。論理があったりなかったり、もしかしたら、言葉に論理を求めるだけではいけないのかもしれない。そんなことも思いながら、おもむろに文字を打ち込む。その先に何があるのか、そんなことはわからないけれど、そうやって人はずっと旅をしているのではないでしょうか。

旅することを怖がらずに。他者との比較だけに疲れることなく、自らの思想の世界を広げて行くことができるように。

なんの脈絡もないのですが一番触発された言葉を記しておきます。

「体の勢いを作り、体の力を発揮するためには、笑う時は声をあげて笑わなければならない。泣く時は泣き、怒る時は怒る。気取りのために、体中で泣き、笑い、怒ることもできないようなことをしていては、活気が興っていない。
たしなみとか慎みとかが大切であることは否定しないが、それは、体中で笑い怒れる人が慎むから慎みであり、嗜みであって、エヘヘヘヘと誤魔化して笑いしかできないようでは、腰が抜けているというだけであります。自然の感情の発露がなくなってしまうようでは、人間が人形に近づいたといえます。もう一度、原始の状態にフィードバックし、そこから再出発する方が、活き活きした生き方が生まれるのではなかろうか。」
(野口晴哉『整体入門』)